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FILE00:織畑奈奈   NANA ORIHATA 

 この氷が融けたら、今度こそ、この店を出よう。

 不似合いにビールに浮かぶ、拳大のロックアイスをじっと見据えながら、奈奈は思った。
 ジョッキに手をつけるでもなく。すでに白泡は消え失せ、幾分か薄くなった茶色の水だけを視界に入れて。
 カウンター席と4つのテーブルが並んだだけの小さな居酒屋だった。カウンター奥には数多の日本酒がこれみよがしに飾られている。 もともとここは、「彼」がとても好きな店だった。狭く、雑多で、忙しなく。けれど埃くささはない。
 客はいつも数人しかいなかったけれど。
 居なかったからこそ。よく2人で訪れた。
 何かがあるたびに。
 それから、何もなくても。
 私は未成年なんだから、奈奈が主張しても「彼」は垂れ目がちの眦を更にハの字に下げて言った。
「全く、固いことは言わないの。ホラ、飲んだ飲んだ」
 「彼」は冷たい飲み物にはなんだって氷をしこたま放り込むクセがあって。常連の奇行には慣れている店主故に、何も言わなくても彼の飲み物にはジョッキにぎりぎりうずまるほどの特大氷を入れてあった。
 店の最奥のテーブル席で、2人向かい合わせて。
 ただただ、通り過ぎる時間を共に浪費した。
 他愛無いお喋りと、柔らかな視線と。
 それだけだったけれど。
 奈奈にとってはとてつもなく大切な時間だった。
 学校へ行っている時間よりも。家族と過ごす時間よりも。
 濃密な光に満ち満ちた空間が、いつまでも続くような錯覚すら覚えていた。
 なのに。今、奈奈は1人だった。
 待っていても、「彼」が来ないことは分かってはいたけれど。どうしても理解することができずにいた。
(どうして。「彼」はいないんだろう)
(どうして。わたしは独りなんだろう)
 かつては向かいにあったぬくもりの指定席には、今は無機質な壁――濃クリームのペンキ塗装がはげている――があるだけだ。
 氷はじりじりと体を縮め、ビールの色味を奪ってゆく。
 時は静かに、過ぎてゆく。

「……あいつは、来ないぞ」
 耳に馴染んだ義弟の声に、顔を上げた。
「どうしたの、安芸(アキ)。こんなところまで」
「つけて来た。さっきから後ろのカウンターにいたんだけど。本当に、気づかなかったの?」
 奈奈が曖昧に笑むと、安芸はわざとらしくため息を吐いてみせる。
 義弟とはいえ。安芸は奈奈と同い年だ。
 つい最近までは、同じ学校の同じクラスに在籍していた。
 徐々に間合いを縮める義弟に、奈奈は無意識のうちに身を堅くする。
「奈奈サン、相変わらずだね。そんなにもオレのこと警戒してる?」
 ヘラヘラと薄笑いを浮かべ覗き込む義弟に、奈奈は体中の血が沸きあがった。
「当たり前でしょう? 知らないとでも思ったの? ……弘毅さんに“あのこと”バラしたの、貴方なんでしょう?」
 安芸は何も言わずに、悠然と微笑んでみせた。
 それが答えだというのは、すぐに分かった。
「貴方、自分が何をしたか、分かってるの?」
「奈奈サンこそ」安芸はすばやく、彼女の利き腕を乱暴に掴み、引き寄せる。「オレがどうしてあんなことしたか、わかってる?」
 もがけばもがくほど、安芸に抱きすくめられるような体勢となってしまう。それでも奈奈は死にもの狂いで微力の抵抗を繰り返す。
 2人の身長差は殆どないというのに、力の差は歴然としていた。
「分か……らないし、分かり、た、くもない。それより、離してよ!」
「あらま、ホント、嫌われちゃったねえ」
 安芸の声色は余裕そのものだった。いとも簡単に背中に手をまわし、彼女を射抜く。
「奈奈サン、いい加減、「先生」のことは諦めなよ」
 これまでとは違う、至極真剣な力のある言葉だった。
「……離して」
 安芸の腕の中に堕ちようとも、奈奈の双眸には「彼」のビールだけが映っている。
「離さない。……何があっても」
 彼は両腕にますます力を込めた。
「忘れちまえ、あいつなんか。お前を置いていった男のことなんか」
 けれど。安芸の力が強まるにつれ、奈奈の頭の芯はすっと冷え渡っていった。
「忘れない。忘れてなんかやるもんか。……他のヤツなんか、好きになんてならない。絶対に。だからさ、安芸……あんたなんかに構ってるヒマはないんだよ」
 不意に、安芸の力が弱まった。
 ようやく理解してくれたのか思った奈奈に、安芸が覆いかぶさる。
 けれど、押し倒されたわけではないことはすぐに分かった。
 安芸は、気絶していた。
 安芸の背後にいた人物に、奈奈は驚いた。
 “彼”と同じ位の背格好だったのだ。
「未成年がこんな所で揉めてんじゃねーよ。……ったく、めんどくせー」
 吐き捨てられたぶっきらぼうな口調に、“彼”とは別の人だと落胆した。よくよく見れば身長以外は全く彼と似ても似つかない、見知らぬ男だった。
 年は“彼”よりずっと若く、顔立ちもずっと凛々しい。

「お前も、早く帰れ。ガキはもう寝る時間だろう」
 男は言いながら、赤くなった右手を真新しい背広に擦りつけていた。手の甲の変色した部分の分布から、安芸の頭を思い切りチョップしたのだろうとわかる。
「どうして、助けたの?」
「あぁ?」
 男は奈奈を見て。
 そしてそのまま蹲った。
「どうしたの?」
「……気持ち悪ぃ…………」
 言葉と同時に男は吐くと、そのまま倒れ込んだ。
「ちょっと! 大丈夫!?」
 男の傍にしゃがみこむ。が、返事はない。
 ふと、男が座っていたであろうカウンター席を見ると、注がれたばかりらしく冷気がまだ漂うビールがあった。
 ほんの一口、二口分しか減っていないように見える。
 まさか、そこまでの微量で酔ったわけではあるまい。この店に寄る前にも、どこかで飲んできたのだろうか。
 けれど、吐瀉物からはアルコール臭は感じられない。

 大の男が店の床に倒れ込むという珍事に、さすがに我関せずを突き通していた店主も出てくる。
(安芸は放っておいても大丈夫だろうけれど)
 奈奈はじっと、男にしては長めの漆黒の髪を後ろでくくった人物を見た。
(……どうしよう、コレ)

 ビールジョッキの氷は、まだ融けきってはいなかった。

 

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FILE01:小椋 凛    RIN OGURA 

 まずい。
 まずいことになった。
 青年は右手に目覚まし時計を持ったまま、硬直している。
 時刻は7時12分。午前の、ならば何の問題もなかったのだが。間違いなく、午後7時12分のようだ。カーテンの外側は、闇を帯びている。
 ひょっとしたら、という期待を持つことはできなかった。まだ仄かに冷気を孕んでいるとはいえ。季節は春。空が白みはじめるのが遅い、真冬ではない。
 今日はまさに、青年の人生の初舞台だったというのに。
(入学式に無断欠席だぁ? ありえねー)
 心音は早く、いつまで経っても鳴り止まない。
 確かに。教師としての“初仕事”を休んでしまったのもまずかった。
 が、青年を更に追い詰めるものが隣にあった。
 彼とおそろいのパジャマ――濃紺のストライプが走った男物で、着丈が随分と余っているようだ――を着て、小さな寝息をたてている少女の存在だ。
 オレンジに近い茶のふわふわとしたウェービーヘアが、先ほどからベッドについたままの彼の左の手にかかってこそばゆい。
 長い睫毛に、わずかに紅に色づいた白い肌。それから、すらりとした四肢。なかなか可愛らしい少女ではあったのだが。
 どう贔屓目にみても、成人しているとは思えない、幼さが残っていた。
 教師になるはずだったその日に休んだ挙句、隣に寝ている未成年の少女。
 どんなに考えを巡らせても、最悪の結論しか導きだすことができない。
 下手をすれば、教壇に一度も立つこともなく、警察のお世話になるかもしれなかった。
 混乱しているからだろうか。こめかみにずしりと重みを感じる。
 とりあえず、少しでも落ち着くことが先決だ。青年は目覚ましを置き、寝台の薬箱へと手を伸ばした。
 不意に左の手の甲に熱を帯びたものが触れる。少女の手のひらだと気づくのに、時間はかからなかった。
 空ろな瞳が――至極澄んだ鳶色が印象的だ――青年を捉え、口端が笑みの形にゆがむ。
「おはよう、凛」
 少女はためらうことなく、彼の名を呼んだ。
 教員免許剥奪は免れない、青年が覚悟を決めた時のことだった。

「ただいま」
 聞きなれた同居人の声に。更にまずいことになったことを、彼は悟った。

 

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FILE02:倉持 命    MEI KURAMOTCHI 

 足元がふらふらと覚束ない。
 意識は朦朧としている。
 下腹部に鈍く反響する、突き刺さる感覚だけがやけに鮮明だ。
 元々、彼女の月経は重い方ではあったけれど。春とはいえまだまだひんやりとした空気の立ち込める体育館では、尚更だった。
 どれくらいの時間が経ったのだろう。
 命は気力を振り絞り、腕時計――兄のように自分を可愛がってくれている幼馴染・天に、入学祝いとしてもらったばかりのもの――を覗き込んだ。
 入学式が始まってそろそろ1時間。校長の話しはじめから考えれば、20分ほど。
 ――そもそも、学校生活というものは……
 まだまだ独演会が終わる気配はない。
 狭い額に汗が滲み出してくる。
 僅かに残った意識は、泣き言のみを紡ぎ出した。
(もう、誰でもいいから……たすけて)
 けれども。命を助ける者は誰もいなかった。
 周囲の学生は皆一様に眠い目をしている。
 早く終わらないかと時計ばかりを気にする者。
 隣の学生と声を噛み殺して会話する者。
 耐え切れずに、こくりこくりと船を漕ぎ出す者……。
 広い――それこそ今の命にはどこまでも続く砂漠のように果てしなく感じられた――体育館に、命の体調不良に気づく者は誰一人として存在しなかった。
 あるいは、この場に天が居たのならば、命の異変に真っ先に気づいただろうが。
 生憎、入学式には2、3年生は参加していなかった。
 視界の端に靄がかかる。
 もう駄目だ。命の薄い体躯がまさに崩れ落ちようとしたその時。
 不意に命は宙を浮いたような気がした。
「おい、大丈夫か」
 低い、ぶっきらぼうな――けれどとても心地の良い声が耳のすぐ傍で響いた。
 がっしりとした腕に抱きかかえられ、命の意識はふっと緩む。

(よかった。も、う、……我、慢しなくて……いいん、だ)
 遠ざかる意識の中、命は彼の腕をきつく掴んだ。
 何があっても絶対に離さないように。強く。

 

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FILE03:柏木 天    TSUKASA KASHIWAGI 

 待ち合わせは、いつもの喫茶店だった。
 少年は一人、薄い文庫本に視線を落としている。
 周囲はざわめいていた。勿論、夕方の帰宅ラッシュ帯なので、店内は混んでいたのだけれど。漣のように寄せては返す声は、全て彼に向けられたものだった。

「ね、あのひと、カッコよくない?」
「あたしも思った! モデルか何かかな」
「ね、サキ、声かけなよ」

 甘い誘いの視線に気づくこともなく。言葉に耳を寄せるでもなく。彼はゆっくりとページをめくった。
 しばらくして、同年代の少女が対面に腰掛けた。
 肩までのウェービーヘアがふわりと揺れる。
「おまたせ」
 少女の言葉と共に、ざわめきと視線は諦めを含んだ色に染まる。
 少女と少年は雑誌のグラビアページから飛び出したように。とてもつりあっていた。
 傍から見れば、恋人同士の待ち合わせにしか見えないのだろう。
 彼らは表向きには、付き合っているということになっていた。
 実際といえば――。
「命の様子が変なんだ」
 少女が座った途端に、彼は別の女の名前を出す。
 が、彼女も気にした様子もなく、平然と尋ねる。
「メイちゃんが?」
「ああ。確かに今日は、今朝から体調が悪そうではあったんだが……。やはり、付き添った方がよかったのかもしれんな」
 ニキビ一つない額に深い皺を寄せ、少年は神妙に呟く。少女は彼の様子に苦笑を浮かべつつ、続けた。
「大丈夫でしょ、だってもう今日から高校生でしょう?」
「そうは言うが……。帰ってきてからずっと、上の空で。呼びかけても全く反応しない。ため息をついては、天井を眺める。……悪い病気でも拾ってきたんじゃなかろうか……。明日からは登下校も命に付き添った方がいいかもしれないな」
「天が付いていったら、目立つと思うけど」
「俺がか? どうしてだ?」
「……まあ、自覚がないならいいけど。案外、簡単な理由だと思うけどなぁ」
「どういうことだ?」
 ずい、と身を乗り出す天に、少女は笑いを噛み殺す。少年が興味を示すのは、いつだって「命」の話題だけなのだから。
「好きな相手でも出来たんじゃない?」
「命に……? そんな、まだ早い。あいつは、15だぞ?」
「もう、だよ。あのねえ、天、恋愛に年齢は関係ないって。大体、天とだって2つしか違わないじゃない」
「それだけ違えば十分だ。……命に恋愛沙汰はまだ早い」
 少女はため息をつき、少年の凝り固まった表情を見つめる。
 天は昔から、幼馴染の命を猫可愛がりしている。命が欲しいといえばなんでも与え、命が行きたいと言えばどこへだって連れ出し……。
 けれど。籠にとじこめて愛でるような彼のやり方に、少女は疑問を抱かずにはいられなかった。
「時に、奈奈」
「何?」
「前々から気になっていたんだが。……あいつのことをメイと呼ぶな」
「ハイハイ、ごめんなさい。苗字で呼べばいいんでしょ。確か、倉持だっけ?」
「そういう意味じゃない。きちんと漢字で命と発音しろ。間が抜けて聞こえる」
 奈奈はもう一度、ため息をついた。
 ふと、店外へと目をやる。
 桜並木は、少しずつ葉桜へと移りつつあるものの。まだまだ、各々の所在を示すように咲き誇っていた。
 はらはらとさくらの花が降る中。少女は丁度一年前の自分へと思いを馳せる。
 そして、誰より愛しかったヒトの面影が脳裏を掠めた。
 吸い込まれるように心の所在を亡くした彼女にようやく気づいた天は、奈奈の目前へと手のひらを翳してみせる。
「どうした?」
「……何でもない。明日から、同級生になっちゃうんだね」
 天は答えることもできず、ただただ奈奈の強張った口元へと目をやる。
「やだ、心配とかしないでよ。ちゃんと、学校は行くから。――もう、逃げたりしないから」
「無理だけはするなよ。お前は一人じゃない、それを忘れるな」
「ありがと」

 

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